朝目がさめてみても、やはり何かの悪い夢を見続けていたかのように感じたが、少し開いていた窓から吹いてくる風の冷たさが妙にリアルで、やはりこれは現実なのだ、と思い知った。
ベッドの中でいまだ夢見心地のシルクを一人残して、少年はするりと部屋を出た。階下にあの女性の姿はなく、昨日夕食をともにした石造りのテーブルも綺麗に片付けられていて、なぜか彼女をこの世界に証明し得るすべてはもう失われてしまったのかもしれない、と思った
もう、何も動かなくなった世界に、たった一人。
少年はそっと彼女の家の形だけの扉を押し開けて、外に出た。
目の前に広がる世界はもう、一昔前に叫ばれていたような楽園では決してなく、ただ死にに果てた大地が逃れることのできないくらい、どこまでも連なっているだけであった。
少年は一人、十字を切って神に祈る。
早く、この悪夢から目覚めさせてください、と。
「こんなところにいたんですか」
少年がつぶやくと、女性はびくっとなって振り返り、そこにいるのが昨日の少年だと気づいたからか、ほっと息を吐き出してからりと儚い笑みを浮かべた。
「そう、日課だからね。毎日ここまでくるのよ」
女性はそう言って、
「ここに飾る花すらないのに。なんだか、おかしな話よね」
と呟いて、膝を屈めた。少年は女性のところまで歩いて近づきはしたが、かけるべき言葉が見つからなくて、結局は黙っていたのだった。
目の前に並ぶ質素な墓標と、ちいさくうずくまりながらそれをぼんやりと見つめている女性。吹いてくる朝風はただ冷たくて、少年からあらゆる言葉を奪い去ってしまったように、彼には、ただ突っ立っていることしかできなかった。
そうして女性は、胸の前で手を組んで、しばらくの間、じっと目を瞑っていた。今の彼女に、いったいどんなことを祈れるのだろうか、と少年はそんなことを考えていた。
「さて、と」
と女性は祈りを終えて、体を半分ねじって少年を見た。
「少女は、まだ寝てる?」
「はい。なんかすいません。ベッド占領しちゃって」
「いいのよ、別に。普段は使ってないからね」
女性は「どうしてあなたが謝るのかな」と呟きながら少年を見て、くすりと笑った。
「二人は恋人?」
予期していなかった女性からの突然の問いに、少年は「う」と言葉に詰まった。
「・・・まだ、そういうのじゃないです」
「ふーん」
なんかいいよね、そういう感じ。女性がポツリとそう漏らして、その中になんともさびしそうな気配があるのを少年は見た。この女性がその身にまとった悲しさのように、ひとつの感情が人間を完全に染め上げるには、いったいどのくらい、それと向き合わないといけないのだろうか、きっと、気が遠くなるくらい、それこそ日の出から日没までの、その永遠にも等しい時間、ずっとその色に浸り続けたに違いないのだ。
と、少年はそんなことを考えた。
もうすぐ時間だから、と言う女性とともに、街の果てにて、どこまでもどこまでも、途切れながら続いてゆく線路を眺めていた。先が見えなくなることへの不安、とでも言うのだろうか、きっとほとんど無制限に広がっているであろうこの大地を今踏みしめているこの足が、少年にはなんとも頼りないものに思えて仕方がなかった。
「輸送屋」が姿を現したのは、少年がそんなことを考えていた、ちょうどそのときだった。
輸送屋がこちらに近づいてくる。その姿が大きくなって人影が確認できるくらいになったときにまず少年の目に入ってきたのは、馬であった。ああ、ここらでは馬なのか、と少しずれたことを少年は思った。考えてみればそれは当然のことで、以前まではオートバイや車が主流だったが、今では燃料が手に入らないし、たとえ仕入れルートを確保しても、高額でとてもじゃないが採算が合わない。世界の貧窮はいたるところにその影を伸ばし、日に日に人々の生活を圧迫していた。
「輸送屋」の若い男が二人の目の前で馬を止めると、幌の中から少しばかり年嵩の男が顔を出した。
「おう、嬢ちゃん。三日ぶりだな。・・・お、そっちの少年は新顔だな。なんだ、ボーイフレンドか?」
「違いますよ。旅の人で、昨日初めて会ったばかり人だから、あんまり驚かしちゃダメですよ、ラディ」
と言う女性の声は、幼児を諭しているように、少年には聞こえたが、諭された男の方はと言うと、幼児とはほど遠い雰囲気で「がははは」と豪快に笑い声を上げたのだった。
「えーと、おじさん。僕たち隣街まで行きたいんですけど、一緒に乗せて言ってくれませんか?」
「はぁ?おじさん、だと?」
「・・・お兄さん」
ラディと呼ばれた男はまた「がははは」と大口を開けて笑い「よしよし」と言いながら少年の背をばしばしと叩いた。「何なんだろう、この人は」と少年は暫く呆れて、それからはぁ、と深いため息を吐き出した。
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